「私はみにくい男である。
 しかし、私は自分のためにもっとも美しい女性を買うことができる。
 だから私はみにくくない。」


マルクスの「経哲草稿」より。


これは、シェイクスピアが「黄色い奴隷」と呼んだ、
貨幣についてのフレーズをかみ砕いた一節だ。


お金があれば、何でも買える。
能力がなければ能力がある人を、
美貌がなくてもしばしば美貌の恋人を、
歩けなければ車を、聞こえなければ手話や筆談の通訳を買える。
臆病な者も、貨幣によって勇者を買うことで、勇士となる。


しかしこれは、どういうことだろう?


彼はこのことを
「自然的ならびに人間的な性質の倒錯と置換である」
と書いた。
彼によれば
人間がお金によってそもそも自然に持っていないものを持つことは
「倒錯」なのだ。



そのあとに、彼が書いたのが、この一文だった。


「もし君が相手の愛を呼び起こすことなく愛するなら、
 すなわち、もし君の愛が愛として相手の愛を生み出さなければ、
 もし君が愛しつつある人間として
 君の生命発現を通じて、自分を愛されている人間としないならば、
 そのとき君の愛は無力であり、ひとつの不幸である。」


私たちはしばしば
相手の役に立てれば、愛されると信じている。
自分が美しくて、相手を魅了できれば、愛されると信じている。
自分に何らかの愛すべき価値があれば
誰かが自分を愛してくれるだろう、と信じている。


このとき
自分の能力や、魅力や、美しさは、「価値」だ。
相手の愛を買うには
そんな「価値」が必要だ、と感じている。


「この世のどこかに、私を愛してくれる人がいる」


というのもそうだ。
自分のなかにあるなにかが、その人にとってだけ、なにか魔術的絶対的に価値がある。
その人がそれを一生懸命探しもとめて、買いに来る。
そういうイメージだ。


人はしばしば
「愛されたい」
「必要とされたい」
という。
「愛される」ということは「必要とされる」ということと、イコールなのだ。


先日、私の祖母が、高熱を出して入院した。
私は何度か見舞いに行った。
祖母は自分一人で立ち上がることも、水を飲む吸い飲みを手に取ることもできなかった。
だから、私は彼女を抱き起こしたり、すいのみをとってやったりした。
このとき、祖母は私を「必要としていた」。
つまり、私は「愛されていた」と言える。



ちいさな赤ん坊は何もできない。
多くの母親はその赤ん坊にさまざまなことをしてやる。
赤ん坊は母親を必要としている。
母親は赤ん坊が笑うと、深い喜びを感じる。
愛されているのは、だれなのだろう。
愛しているのは、だれなのだろう。



自分ひとりで自分の望みが叶えられないとき、
それは「無力」な状態である。
その人は自分の手で自分の欲することをかなえることができないのだから、
力が足りないのだ。
一人では何もできない。
でも、その人に何かしてあげたいと思う人間が現れたとたん、
無力だったその人は一転して「力」を得る。
魔法のように、奇跡のように、そうなる。



私が誰かを必要とするとき
私はその人の方に自分の存在を投げ出すようにして無力だ。
でももし、その人が私に手をさしのべてくれたら
私はその人を愛する人間となり
その人は私に愛される人間となる。


愛する
とは、しばしば
誰かに何かをしてあげることだと考えられている。
このことを、マルクスはこんなふうに注意深く表現しているのだ。


「もし君が愛しつつある人間として
 君の生命発現を通じて、自分を愛されている人間としないならば、」


大事な人のために、役に立とうと立ち働くことは
つまりはこういうことなのだ。
それ自体は「愛すること」そのものではない。
あくまで「愛しつつある人間」として、
自分の生命発現を通じて、相手から必要とされること。
大事な人のために何かをする、ということは、そこまででしかない。



本当に愛するということは
自分を無力化する事なのだ。
自分の弱さを認め、相手の方へ、それを投げ出してしまうことなのだ。
相手はそれに対して、手をさしのべないかもしれない。
無視して通り過ぎるかもしれない。


そのとき、それはひとつの不幸だ、と、マルクスは言うのだ。



「死を待つ人々の家」
で、一番愛されていたのはマザー・テレサだったろう。
死に向かう、なにもなしえない最も弱い人たちは
絶望と不幸の方に身を投げ出して、
絶望と不幸が彼らを傷つけるままに無力化していた。
そんな人々にマザーが手をさしのべた瞬間
彼女は「必要とされる人」となり
皆に愛された。
愛したのは誰だったか。
自分の無力を彼女に投げ出した人々のほうなのだ。
無力な人が無力を投げ出したまま放っておかれることは
飢えて病んで傷ついた人々が道ばたに、死に行くままに放っておかれることそのものを意味する。
これが「ひとつの不幸」なのだ。


愛は決して、能力や美貌や財産への対価ではない。
愛とは、誰かの無力や傷に対して誰かが手を伸ばしたときに生まれる。
愛が愛を生む、それは奇跡のようなことだ。
無力だった者の存在、
弱さの存在が、
それを投げ出すという強さを持ったとき、はじめて
そのそばにいる人間と、その人間の弱さとの間に
愛が生まれる可能性ができあがる。


でもそれは可能性に過ぎない。
弱さが見過ごされればそれは、そのまま、ひとつの不幸がそこに実現するだけだ。



うつくしいもの、かわいらしいもの、能力のあるもの、強いもの、たくさんのものをもっているもの。
そういうものが愛される、というなら
全ての愛は金銭で買える。


でも本当の愛は、金銭では買えない。
本当の愛が欲しいと思うなら、本当に必要とされたいと思うなら
私たちは私たちの弱さをみつめてそれを
恐れずに相手に方に投げ出す強さを担わなければならないのだ。


そこで訪れるかもしれない孤独に耐える力を
養わなければならないのだ。




「もし君が相手の愛を呼び起こすことなく愛するなら、
 すなわち、もし君の愛が愛として相手の愛を生み出さなければ、
 もし君が愛しつつある人間として
 君の生命発現を通じて、自分を愛されている人間としないならば、
 そのとき君の愛は無力であり、ひとつの不幸である。」



これの意味は、そういうことだった。


貴方は貴方の美しさや強さや能力や機能によって誰かに愛されるのではない。
貴方は貴方の弱さを貴方が握り締めてそれを
おそるおそる誰かの方に投げ出す勇気を持ったときだけ
誰かを愛する可能性をその身に帯びる。
そして、その人が貴方にもし、手を伸ばしてくれたなら
その人は貴方に愛される存在として
この上なく幸福な人間になることができる。
貴方はその人を愛するという力で
その人をくまなく満たすことができるのだ。




たいせつな人の苦しみや痛みに触れるとき、心が震える。
手を伸ばしたとき、私の手を握り返すその人の手の温度が、全てをくれる。
たとえ、遠く離れてそばにいることができないときでも
たとえ、私か相手が死んでしまったあとでも
私はその人の傷や、もろさや、涙を思って手を伸ばすだろう。
その人の強さや、明るさや、優しさや、人間的なあらゆる輝きとおなじくらい
その人の痛みや孤独が私の愛の対象となるだろう。
もしその人が私に、痛みや孤独や寂しさや涙を見せてくれたとしたら
それらを私の方に投げ出してくれたとしたら
それ以上の幸福はこの世にはあり得ない、と私は思う。



愛は、最初からそこにあるわけではない。
最初にあるのは
だれもがひきつけられるような表面的な魅力や、おもしろさや、優しさだけだ。
そこになにかの衝撃が走り
人の中の最も弱くやわらかい部分が外側に剥き出しになり、迷子になったとき
そのほとばしりが誰かの心を震わせて、その人を立ち上がらせ動かしたとき初めて
魔法のように、そこに愛が生まれる。


それまでは、なにもない。


愛ってそういうものなんだとおもう。